翌朝、私はティオの研究室を訪ねていた。
新婚旅行のあとの初外出。
レオンは「一緒に行く」と言い張っていたけれど、アレクに「仕事が山積みです」とぴしゃりと止められてしまい、今日は護衛付きとはいえ、ひとりでの外出となった。
「やあ、セレナちゃん。いらっしゃい!」
研究室の扉を開けると、ティオはいつも通りの笑顔で迎えてくれた。
でも、その瞳の奥は鋭い。
――私が何かを伝えに来たと、すぐに気づいたようだった。
「……レオンの、痣が広がってきているみたいなの」
椅子に腰かけた私は、小さく息を吐いてそう伝える。
「本人は『大丈夫』って言ってるけど……私は、悪化してるんじゃないかと思ってて」
ティオの表情が、少しだけ曇る。
「やっぱり、か……呪いの進行がやけに早いと前々から思ってはいたんだ……」
「……そう、なんだ……」
「この間の“聖域”での反応を見た限り――呪いの核心には、“魔法陣”が関わってるのは間違いないと思う。あれを正しく起動できれば、何かが変わるはずだ」
真剣な声に私も黙って頷く。
「……ただ、魔法陣に関する記録は、ほとんど残っていないし……ずいぶん昔に滅びたとされてる……“忘れられた力”なんて、そう簡単に蘇るもんじゃない」
「うん……」
「でも……皇帝陛下なら、何か知ってるかもしれないってうっすら思ってて。……聖女の力を隠そうとしたのも皇族だったから。」
その言葉に、胸の奥がざわりと揺れる。
「まぁ、断言はできないけどね。だって元皇女だったレオンの母上も知らなかったみたいだし。……まぁ、さすがに甥っ子相手に、何かを隠してるなんて考えたくないけどさ」
ティオは肩をすくめて、少しだけ皮肉めいた笑みを浮かべる。
「でも、もし“知ってて黙ってる”としたら──それはそれで、だいぶ不気味な話だよね」
その言葉に、セレナの背筋が冷たくなった。
ひやりとした感覚が、喉元から胸の奥へと広がっていく。
(そんな……まさか)
ふいに、レオンの穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。
けれど、それと同時に──何か、大きなものに近づいてしまったような予感がして。
セレナは思わず、息を呑んだ。
重たい沈黙が流れかけたそのとき、ティオがぱちんと指を鳴らした。
「……そういえば!ミアちゃんに会ったって聞いたよ」
「えっ……?」
ーー『こういう時は、ここを優しく触れてあげると……あと、こういうのに弱いんですよ……』
急にあの熱烈なアドバイスを思い出し、思わず頬が熱くなる。
「セレナちゃんの“研究”に一役買うと思ってたんだよね~。役立った?」
「もうティオ……!」
「ごめんごめん、まぁ、まだまだわかんないことだらけだからさ。こっちも引き続き調べておくよ。……いつも通り、よろしくね」
そう言って笑うティオに、思わずこちらも微笑みを返す。
きっと私が重く考えすぎないように、明るく振舞ってくれているんだろう。
「――あ、そうそう。さっき、ここの前で変な女の子がうろついてたんだよね。なんか挙動不審でさぁ。……気を付けて帰ってね、セレナちゃん」
「……え?う、うん」
ティオが、ふと気楽そうな声で続けた。
「こう、ふわふわっとした感じの子だったんだけど、きょろきょろしたと思ったらその辺を行ったり来たりしててさ……」
「へえ……なんだか面白い方がいたのね」
「でしょ? それで急にくるっと向き変えて逃げてくんだからさー。なんだったんだろうなあ、あれ」
「……もしかして、ティオのファンだったりして」
「えっ」
想像もしてなかった私の発言に目を丸くしたティオ。
「ふふふ……ティオは、好きな人いないの?」
「え、僕?」
「うん。ティオ素敵だし、誰かに想われてそうなのに、そういう話聞かないから……」
からかうように言ったつもりが、ティオは「ん」と小さく唸って考え込んだ。
その様子が少し意外で、思わずじっと見つめてしまう。
「……恋とか、そういうのはねえ……あんまり、わかんないや」
曖昧に笑いながら、彼は首をかしげた。
「でも、経験は……うん、まあ、その、あるっちゃ、ある……し……」
途端に視線が泳ぎはじめる。
「……ふふっ」
「な、なに、今の笑い!?」
「別にっ。……なんでもないよ」
セレナは慌てるティオの様子に、つい笑いをこらえきれなくなった。
「……あははっ……また、聞かせてね」
「……もう、セレナちゃんっ」
ーーその夜。
眠る前の寝室で、私はベッドの上にうつ伏せになっていた。
ぽふぽふと枕をつついていたら、ふと、昼間のティオとの会話が脳裏に浮かぶ。
「……ふふっ」
思わずこぼれた笑い声に、すぐ隣から声がかかる。
「……何がそんなに楽しかったの?」
レオンの声は、静かだけれど、どこか探るような響きを含んでいた。
「えっとね……ティオと、ちょっと面白いやり取りがあって」
レオンは何も言わずにこちらを見つめている。
「気になる人はいるのか……とかそういう話をしてて……」
「セレナ」
不意に名前を呼ばれた。
顔を向けると、すぐ目の前にレオンの瞳。
その視線があまりに真っ直ぐで、どきりとする。
「……?」
次の瞬間、何かを遮るように、唇が塞がれた。
ちゅ、ちゅっ……
触れるだけの軽いキス。
でもそれは、何度も、何度も繰り返される。
「ん……レ、オン……?」
唇を離したレオンが、耳元で囁いた。
「……他の男の話ばっかりしてるから。ちょっと黙らせようと思って」
その声が甘くて、少し拗ねたようで——
私の胸の奥に、きゅんとした痛みを残す。
「……レオン?どうしたの?」
そう呟いた途端、また唇が重なった。
今度は、さっきよりも深く。
舌が触れ合い、甘い熱がとろけるように流れ込んでくる。
気づけば言葉は消えて、ふたりの間には、甘く深い沈黙だけが残っていた――
この夜は、まだ終わらない。


