湖畔でボートを漕いだり、地元の市場でお揃いの指輪を買ったり、夜は星を見ながら肩を寄せ合ったり……
そんな穏やかで、胸がきゅっとなるような日々が続いていた。
気づけば旅も、残すところあと1日。
名残惜しさが胸を満たしながらも、ふたりの絆は確かに深まっていた。
朝のやわらかな光の中で、ベッドの上のふたりは、ごろごろとお互いにくっついたまま過ごしていた。
レオンがセレナの髪を撫でながら、ふとため息まじりに言う。
「……幸せすぎて、このまま帰りたくない」
セレナはくすっと笑い、彼の背にそっと腕をまわす。
「ふふ……ねぇねぇ、レオン疲れてない?……マッサージ、してあげようか?」
レオンは少し驚いたように目を開けたが、すぐに首を横に振った。
「セレナが疲れるから、いいよ」
その優しさに、セレナは微笑んだまま──ふふふと小さく笑った。
「……実はね、このお屋敷に、すっごいマッサージが上手な使用人さんがいてね」
「へえ……?」
レオンが首を傾げる中、セレナはふわりと目を細めて、ゆっくりと“あの時”の出来事を思い出し始めた──。
***
数日前ーー
レオンが疲れてゆっくり寝ていた日。
セレナはリナに呼び出されていた。
「セレナ様、ちょっと来てください!」
どこかそわそわとした様子のリナが、こっそりセレナの手を引く。
「実はこのお屋敷に、ものすっごいマッサージの上手な使用人がいるんです!セレナ様、お疲れでしょう? ぜひ癒されてください!」
そんな風に引き込まれるままに辿り着いた部屋。
そこに立っていたのは──
肩の上でぴたりと切りそろえられた、深い紫の髪。
大きくぱっちりとした金色の瞳、ほんの少しだけ目じりがつり上がっている。
その輝きは、まるで気まぐれな猫のように、見る者の心をさらっていく。
小柄なその女性は、丁寧すぎるほどのお辞儀をした。
「こんにちは、公爵夫人。別荘付きの使用人、グレイシア男爵家のユノと申します。お目にかかれて光栄です。どうぞ、ユノとお呼びください。」
彼女のその所作には一分の隙もなかった。
まるで舞台の人形のように、しなやかで完璧な立ち居振る舞い。
(……ミアさんとはまた違った、まるで……お人形さんみたいな人)
思わずセレナが見とれていると、リナが嬉しそうに声を添えた。
「彼女、ほんっとうにマッサージが上手なんです!セレナ様、ちょっと試してみてくださいっ」
セレナはやや戸惑いながらも微笑み、彼女に向かって言った。
「……ありがとう、ユノ。じゃあ、お願いね」
──それが、不思議な癒しの時間の始まりだった。
「どうぞ、こちらへ」
セレナはふわりと微笑み、言われたとおりにベッドに横になる。
「では──始めます」
力強くもなく、優しすぎるわけでもない。
こちらが求めている強さをまるで分かっているような力加減。
指先が僅かに沈むたび、体がほぐれていく感覚が広がっていく。
「……あぁ気持ちいい~……」
思わず、声が漏れた。
リナが言っていた“すごいマッサージ”という言葉を、ほんの数秒で完全に理解してしまう。タオル越しに伝わる熱、リズム、そして、触れられた場所から不思議と抜けていく疲労感。
(……なに、この人……)
呼吸が、知らないうちに深くなっていた。
ただ、セレナの身体の状態に合わせて、完璧な圧と速度で、全身をゆっくりと解きほぐしていく。
(……この人、ただの使用人じゃない……)
いつの間にか眠っていたようで、施術が終わるとセレナは夢見心地のままふわりと意識を戻した。
身体がまるで、湯の中に浮かんでいるように軽くて、心地いい。
「……ありがとう、ユノすごく楽になった……」
思わずこぼれた言葉に、ユノは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。お気に召していただけて光栄です」
その所作も、やはり完璧で美しい。
セレナは、心の中に芽生えた感動を胸に、ぽつりと尋ねた。
「……マッサージのコツってあるの?ちょっとレオンにもやってあげたくて。」
すると、ユノは少しだけ考えるように目を伏せ、淡々とした口調で答え始めた。
「力で押すのではなく、ゆっくり、体重を預けるようにかけていくのが基本です」
そう言いながら、ユノは手を軽く動かして所作の再現を見せる。
その瞬間──
ふと、セレナとユノの視線が、ぱちりと重なった。
ユノの金色の瞳が、一瞬だけ揺れる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……懐かしい」
「……え?」
セレナがきょとんと目を丸くすると、ユノはすぐに表情を戻し、頭を下げた。
「……失礼いたしました。」
何かを誤魔化すように、ユノは再び淡々とした調子で語り始める。
「やはり経験がものを言いますので……慣れるまでは“相手を想って施術すること”。それが一番大事です」
真っ直ぐに語られるその言葉は、静かで芯があり、そして確かだった。
(……そんなに年、変わらないように見えるのに……まるで長く経験を積み重ねてきた人のような、熟練の重みがある……)
セレナは、どこか切ないような気持ちで、ユノの横顔を見つめていた。
(……もしかして、苦労したのかな……?)
「……ユノ、またお願いしてもいい?」
セレナがそう尋ねると、ユノはふわりと微笑んだ。
「もちろんでございます、公爵夫人。必要なときは、いつでもお声がけくださいませ」
丁寧すぎるほどの口調と、揺らぐことのない所作。
けれど、その言葉には確かに優しさがこもっていた。
(……本当に、不思議な人)
そんなふうに思っていると、ぱたぱたと駆け寄ってきたのはリナだった。
「どうでした!? ユノさんすごいでしょ!?私も最初やってもらった時、天国かと思いましたもん!!」
「ふふ……ほんと、すごかった」
リナの勢いにセレナが笑って頷くと、ユノは静かに一礼した。
──それが、セレナとユノとの、最初の出会いだった。
***
「……っていうことが、あったの」
ベッドの上でごろごろしていた現在のセレナは、懐かしそうに目を細めながら、話を締めくくった。
レオンは、少し驚いたように目を丸くしながら聞いていたが、最後にはふっと笑って、セレナの髪に指を絡めた。
「……そのマッサージ、受けに行ってもいいけど」
「うん?」
レオンが少し顔を近づけて、いたずらっぽく囁いた。
「やっぱりセレナにしてほしいな」
「ふふ、……うん。がんばって思い出しながらやってみるね。」
レオンは幸せそうに目を閉じた。
セレナは、ユノの言葉を反芻しながら、ベッドの上でうつ伏せになったレオンの背中に、そっと手を添えた。
(……あれ?)
シャツ越しに、背中に浮かび上がる“痣”が目に入った。
(……呪いの痣が……広がってる?)
前に見たときより、滲むように広がっている。
その輪郭は曖昧で、それでいて確かに濃くなっていて――
心臓が、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。
でも、悟られたくなくて。
何もなかったように、手の動きを止めずにいた。
(……だいぶ、広がってる気がする……)
この旅行中、あんなに幸せだったのに。
その幸せの裏で、静かに蝕まれていくような感覚が、胸に広がっていった。
(だめだ、集中しよう。……力じゃなくて、体重を……ゆっくり、丁寧に……)
──ぐっ、ぐっ……ゆっくり、ぐっ……。
「……っ、はは……セレナ、それ、くすぐったい……っ」
「えっ!? ごめんっ」
慌てて手を引こうとすると、レオンがその手を掴んで、くすりと笑う。
「……セレナの手だからかな、なんか敏感になっちゃって、くすぐったい」
そのまま、レオンが意地悪そうな笑みを浮かべて、指先でセレナの脇腹をつつく。
「きゃっ……ちょっとレオンっ!」
くすぐられて、思わず笑い声をあげる。
逃げようとするけれど、すぐにレオンに捕まって、ぎゅっと抱き寄せられる。
「逃がさないよ。だって、マッサージのお礼……返さないと」
「や、だめ……っ、くすぐった……ふふっ……!」
ふたりで笑いながら、ベッドの上で軽くじゃれ合う。
「……今度は、ちゃんとできるように練習するね」
「うん、楽しみにしてるよ。」
レオンはそう囁くと、優しく髪に口づけた。
「明日帰んだし……今日は――朝まで、離さない」
低く掠れた声に囁かれ、セレナはそっと目を閉じて頷く。
そしてその夜、レオンの言葉通り、何度も何度もふたりは愛を確かめ合った。
……夜が明ける頃には、さすがに体が動かなくなっていたけれど。
それでも、レオンの腕の中は、ずっと、あたたかかった。
――新婚旅行の最後の夜は不安を残しながらも、静かに、幸せの余韻に包まれていった。


