レオンが目を覚ましたのは、ふわりと漂ったパンと果物の甘い香りのせいだった。
「……ん」
ゆっくりと体を起こすと、目の前にはセレナとリナが敷いたピクニックシート。
その上に広げられた、色とりどりのご馳走たち。
セレナがぱっと笑顔を咲かせた。
「おはよう、レオン」
アレクが持参した冷たいレモネードを差し出しながら、小さく笑った。
「いい日差しでしたので、ぐっすりでしたね、公爵様」
「……ああ」
レオンはまだ少し眠たげな顔のまま、セレナの隣に腰を下ろした。
花の香りと、陽だまりの匂い。
サンドイッチ、ジューシーな果物、素朴なパイ。
何気ないけれど、今ここにあるものすべてが、かけがえのないもののように感じられた。
(……こんな時間、初めてだ)
小さく胸が熱くなる。
「いただきます」
静かに手を合わせ、みんなでご飯を囲む。
セレナの笑顔が、きらきらと陽光に映えていた。
食事が終わった後、レオンがぽつりと言った。
「……湖、行ってみるか?」
「えっ……湖? 行きたい!」
目を輝かせたセレナに、レオンは微笑みを浮かべる。
「リナ、アレク。……少しふたりで散歩してくる」
「かしこまりました~! 私たちはここで待ってますね!」
リナは笑顔で応え、アレクも静かに頷いた。
湖は丘を少し下った場所にあった。
水面は静かにきらめき、陽光を受けて銀色に光っている。
そよ風に揺れる水草と、澄んだ水の音。
「すごい……湖ってこんなに綺麗なの……?」
セレナは無邪気に湖辺まで駆け寄り、水面を覗き込んだ。
「セレナ、落ちないように気を付けて」
「うん!」
セレナは湖の縁にそっと手を伸ばす。
ぱしゃり、と指先ですくった水が、太陽の光を受けてきらきらと弾けた。
それを見たレオンが、珍しく悪戯っぽい顔をする。
「……」
いたずらを企む少年のように、そっと近づき――
「きゃっ!」
ぱしゃっ!
ふいにレオンが水を弾き飛ばし、セレナの頬に小さな水滴がかかった。
「もーっ、レオンっ!」
セレナが水をすくって仕返しに向かおうとすると、レオンは逃げるようにひらりと後ずさった。
水のきらめきの中で、ふたりは無邪気に笑い合い、はしゃいだ。
(……こんな顔、初めて見る)
レオンの笑顔。 セレナのはじけるような笑い声。
ふたりだけの、かけがえのない時間。
けれど、遊びすぎたせいで、ふたりとも服はしっとりと濡れてしまった。
「……冷えてきたな。戻ろう」
レオンはセレナの手を優しく取ると、そっと自分の上着を脱いでセレナにかけた。
「……ありがとう、レオン」
ふたりは並んで、丘の上のふたりへと帰っていった。
「……随分と楽しそうでしたね」
アレクは目を細めながら、濡れ鼠になったレオンとセレナを見て言った。
「ひゃあっ、セレナ様冷えちゃうー! すぐ乾いたものに着替えましょうね!」
リナは大慌てでブランケットとタオルを取り出し、セレナを引っ張っていく。
「公爵様、こちらもどうぞ」
アレクは冷静にタオルを差し出しつつ、どこか小さく笑った。
「……いい日だな」
ぽつりと、レオンが呟く。
その目には、静かに満ち足りた光が宿っていた。
***
楽しかった時間はあっという間に過ぎ、日が傾き始めた頃。
レオンはセレナを抱き上げたまま、アレクに視線を向ける。
「セレナが寝てしまったから帰りは別に頼む」
「……かしこまりました」
アレクが頷くと、リナもすぐに反応する。
「お任せくださいっ! ふたりはゆっくりどうぞ!」
レオンはセレナを抱えて馬車に乗り込み、帰路へとつく。
馬車が静かに揺れるたび、セレナのふわりとした髪がレオンの肩にかすかに触れる。
彼女は小さく寝息を立てながら、完全に身を預けて眠っていた。
レオンは、抱きしめたい衝動を必死に堪える。
(……可愛すぎる)
上掛けをそっと掛け直しながら、彼女の額にひとつ、やわらかなキスを落とす。
それだけで胸の奥がじんと熱くなる。
(こんなにも誰かを、愛おしく思う日が来るなんて……)
微睡むセレナの指が、彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。
(……ああ、もう)
レオンは静かに笑うと、彼女の小さな手を優しく握り返す。
「セレナ……」
寝息を聞きながら、そっと名前を呼ぶ。
こんなふうにただ隣にいられるだけで、すべてが報われる気がする。
彼女の温もりを守るためなら、どんなものでも敵に回せる。
そんな気持ちが、胸の奥で静かに燃えていた。
「……大好きだよ」
誰にも聞かれない小さな声で、そう囁く。
セレナは夢の中でも安心したように、くすっと笑った。
もう、守りたいとかそんな理屈じゃない。
この人を――ただただ、幸せにしたい。
焦がれるような想いを胸に抱えながら、レオンは静かに彼女の額にもう一度キスを落とした。
***
別の馬車の中。
もう一台の馬車では、リナとアレクが向かい合って座っていた。
外の景色はだんだんと夕暮れ色に染まり、馬車の中にも、静かで穏やかな空気が流れている。
最初は気まずい沈黙が続いたが――
「……あの、アレク様」
リナが、おそるおそる口を開いた。
「はい」
変わらない無表情で応えるアレク。
リナは緊張しながらも、少しだけ頬を染めて続けた。
「さっき、公爵様とセレナ様……すごく幸せそうでしたね」
「……ええ。本当に」
短い言葉だったが、アレクの口調はどこか柔らかかった。
リナはそれに気づき、ふっと微笑んだ。
「……私、思うんです。公爵様もアレク様も、少し柔らかくなったなって」
「そう、見えますか?」
「今の公爵様のほうが……ほら、よく笑ってて。優しい表情されてます。アレク様も……ですよ?」
リナの素直な言葉に、アレクは一瞬だけ目を細めた。
「……そうかもしれませんね。奥様のおかげです」
アレクは静かに窓の外に目を向けた。
しばらくの沈黙のあと、リナがまた口を開く。
「……また、みんなでお出かけ出来たらいいですね」
「はい。……また行きましょう」
小さな声だったが、確かにそう答えた。
馬車は揺れながら、静かに城へと向かっていく。
外はもう、星が瞬き始めていた。


